ザール(Zār)型(東アフリカ・中東の和解憑依)

ザール(Zār)型 ― 東アフリカ/中東に広がる「和解型憑依」体系の詳細ガイド

要点(先に要約) ザールは、霊による憑依そのもの・その憑依がもたらす病(不調)・そして霊と和解して折り合いをつける儀礼の総称で、エチオピア/スーダン/エジプトから、ソマリア、紅海沿岸、ペルシャ湾岸〜イラン南部に広く分布する。儀礼は霊を追い払う(エクソシズム)よりも宥和・懐柔(アドーシズム)を基本とし、音楽・香煙・供物・(地域により)動物供犠などを通じて、憑依霊の「好み」や要求を叶えることで症状の軽減と共存を図る。(Sjaak van der Geest, PMC)


1. 定義と分布

  • 定義:ザール(Zār)は、①特定の霊的存在の名称、②その憑依がもたらす不調(病)、③それを宥和する儀礼を指す総称。地域ごとに儀礼の細部は異なるが、「霊と交渉し、望みを満たして鎮める」という構図は共通する。(PMC)
  • 分布:スーダン、エチオピア、エリトリア、エジプト、ソマリア(sar とも)、さらにクウェートやイスラエル、イラン南部の沿岸・島嶼(ホルムズガーン、ブーシェフル、ケシュム島など)へ広がる。起源は東アフリカ発とする見解が有力だが、ペルシャ起源説も併存する(海上交易・奴隷移送の歴史が媒介)。(PMC) 起源をめぐる見解の相違や移動史の指摘は、医療人類学・民俗学の概説に詳しい。 (PMC)

2. 宗教的立場と理論枠

  • 和解(アドーシズム):ザールや西アフリカのボリは、ヴィクター・ターナーのいう**「苦悩のカルト(cults of affliction)」に類し、霊の追放ではなく宥和・共存**を狙う系譜と捉えられてきた。(Sjaak van der Geest)
  • 宗教との関係:イスラームやキリスト教の正統教義からはしばしば周縁視・批判の対象となる一方、地域の民間信仰として根強く存続し、医療・家族・近隣共同体の「別系統の対応」を提供してきた。(PMC, AnthroSource)
  • 医療人類学上の位置:DSM-IVでは**「文化結合性症候群」の一例として取り上げられたが、DSM-5 では「文化的苦悩概念」**の文脈で理解される(いずれも病理判断ではなく、苦悩の表現・理解枠としての扱い)。(PMC)

3. どんな人が「選ばれ」やすいか(社会的背景)

  • 各地で男性例もあるが、成人女性(既婚〜中年)が比較的多いと報告されてきた。背景として、性別役割・婚姻関係・親族関係・移住や都市化などの社会変動ストレスが論じられる。(PMC)
  • エチオピアでは不妊・頭痛・倦怠・抑うつ的状態など、一般医療で解決困難な不調がザール由来と解され、共同体的ケアの場に接続される。(AnthroSource, PMC)
  • スーダン北部では、ザールをめぐる**「文化的治療学」(cultural therapeutics)として、女性の身体・婚姻・権威と結びついた社会的意味**が詳細に記述されている。(AnthroSource)

4. 霊の世界観と分類(概観)

  • ザール霊は、人間世界と並行する秩序を持ち、宗教・出自・階層・地理など人間社会を鏡映するかたちで理解される(イスラーム系・コプト系・外来系など、地域史や民族記憶を映す命名・性格づけ)。(AnthroSource)
  • 霊は固有の嗜好(香・色・衣装・食物・旋律)を持ち、好きな匂い・歌・リズムで呼び出されやすいと考えられる。交渉の成立には、これらの「好み」を満たすことが要点になる。(PMC)

5. 儀礼の「文法」(地域差をまたぐ共通プロット)

は〈診断同定交渉宥和帰属〉の連鎖。ディテールは地域ごとに異なる。

  1. 診断 まず憑依の原因判定。家族・媒介者(女司祭=シェイハ、男司祭=シェイク等)への相談、前段階の薫香・薬草飲食制限が行われる。(PMC)
  2. 同定(見立て) 音楽(太鼓の拍子、弦のモード、定型歌)を切り替えながら、どの霊が応答するかを探る。患者の体がそれに反応して「乗られる」瞬間が識別の手掛かりになる。(PMC)
  3. 交渉 媒介者がザールと直接対話(地域混交の「儀礼語」になることも)。要求(香・布・装身具・特定の食物、時に供犠)が提示され、それに応じる契約を結ぶ。(PMC)
  4. 宥和(儀礼の核心) 音楽・舞踏・香煙・供物、必要なら動物供犠(羊/鶏など)で宥め、**「満足」**させる。エジプトやイラン南部の文献には、私的な供犠儀礼の反復が言及される。(Google Books)
  5. 帰属(加入) 契約成立後、当人は**「そのザールの人」として年中行事遵守事項**(衣服やアクセサリー、食禁、香の使用など)を帯び、ザール集団(兄弟姉妹呼称)の成員となる。(PMC)

6. 音楽・道具・所作

  • 音楽の役割:霊ごとに固有の拍子・旋律があり、反応=憑依の発火点になると理解される。**呼びかけ(司祭)—応唱(参加者)**の応答形式で昂進させる。(PMC)
  • 楽器と身体(エジプト圏の例):タンブーラ(6弦リラ)、マンジュール/マンゴール(山羊の蹄を縫い付けた腰帯)、各種太鼓・フレームドラム。腰帯を振って蹄のラトルを鳴らす所作が象徴的。(ArcGIS StoryMaps, Wikipedia)
  • 香と装束薫香(バフール)や香油は必須。色/布/装身具は霊の嗜好に合わせて選ばれる。イラン南部では白衣・清浄保持が成員規範として語られる。(PMC)

7. 地域別の代表的相貌

7.1 スーダン北部(文化的治療としてのザール)

  • ジャニス・ボディは、婚姻・親族・身体観と絡む女性の実践として、自己と霊・家族の関係を再編するプロセスを描いた(『Wombs and Alien Spirits』)。政治・宗教の周縁で、生活の倫理を織り上げる治療実践として位置づけられる。(AnthroSource, Cambridge University Press & Assessment)

7.2 エチオピア(共同治療と社会的地位)

  • 1950年代の古典的民族誌は、ザールを集団療法的資源として分析し、事故傾向・不妊・痙攣様発作・意欲低下など多様な症状への共同的対応を記録した。コーヒー儀礼など家庭儀礼との連動も指摘される。(AnthroSource, nli.org.il)

7.3 エジプト(都市部の存続形)

  • 都市カイロでは、女性主導のザール集団と音楽実践が細々と存続し、ステージ上の継承活動(例:マザーヘル・アンサンブル)が知られる。実践の核は癒しと宥和にあり、儀礼楽器としてタンブーラマンジュール等が定着。(The American University in Cairo Press, egyptmusic.org, ArcGIS StoryMaps)

7.4 イラン南部・ペルシャ湾岸(風=bād とザール)

  • バーバー・ザール/ママー・ザール(男性/女性指導者)が儀礼を主宰。拍子ごとの音楽で霊を同定し、要求の聴取・供犠と血の所作・加入規範(白衣・清浄など)へ進む。1920年代以降の取り締まりや医療の普及で縮小したが、ケシュム島などに形を変えて生き延びる。(PMC)

8. 参加のライフコースと「年次維持」

  • 一度「選ばれた」と見なされると、年に一度などの定期的宥和(香・音楽・供物)が推奨され、契約の履行(霊が求めた布や装身具を常に携える等)が求められる。怠れば再燃するという了解が共有される。(PMC)

9. 何が「効いて」いるのか(諸解釈の併存)

  • 社会的次元:性役割・婚姻・移動/都市化が生む緊張に対し、ザールは語り直し関係調整の場を与える(とくに女性の相互扶助)。(AnthroSource)
  • 象徴‐実践的次元:霊の嗜好に合わせた音・匂い・色・運動の組合せが、参加者の感覚‐情動を同期させ、交渉の成立を体感化する。(PMC)
  • 医療人類学的次元:DSM の語彙では**「文化的苦悩概念」へと位置づけ直され、医療・宗教・民俗治療の並立**の中で理解される。(PMC)

10. 典型的な儀礼の流れ(総合プロトコル)

  1. 相談・診断:家族と媒介者がザールか否かを見立て。
  2. 喚起・同定拍子・歌を切替え、反応(体幹の前後動・肩の振動・眼差しの固定など)で霊を特定。
  3. 交渉:要求(香・布・装身具・飲食・供犠…)を対話で聴取。
  4. 宥和:**香煙・音楽・舞踏・供物(地域により供犠)**を施し、契約成立。
  5. 加入・維持年中行事の履行、携行物禁忌の遵守、再発時の追加儀礼。  —(上記は地域横断の抽象図。各地の名称・手順は固有に異なる。)(PMC)

11. 変容と現在

  • 抑圧/縮小:イランでは1920年代に当局が規模縮小を図り、その後も医療制度の拡充とともに局地的存続へ。(PMC)
  • ステージ化と継承:エジプトでは、都市の芸能・継承活動としての上演が知られ、儀礼音楽と身体技法の保存が試みられている(例:マザーヘル)。(Africanews, egyptmusic.org)
  • 研究の現在:都市カイロの実践(H. El Hadidi)やスーダンの民族誌(J. Boddy)、エチオピアの古典研究(S.D. Messing)など、地域別に異なる位相を示す資料が蓄積している。(The American University in Cairo Press, AnthroSource)

12. 用語メモ(最小)

  • シェイハ/シェイク:儀礼指導者(地域により呼称は異なる)。イラン南部ではバーバー・ザール/ママー・ザール。(PMC)
  • アドーシズム(adorcism):追放(exorcism)ではなく宥和・受容を志向する憑依対応。ザール/ボリは代表例。(Sjaak van der Geest)
  • タンブーラ/マンジュール:エジプトのザール音楽を象徴する6弦リラ山羊蹄の腰帯ラトル。(ArcGIS StoryMaps, Wikipedia)

参考(主要ソースへの目印)


結語

ザールは、「霊」と「人」の関係を「追放」ではなく**「宥和」で再設計する和解型憑依である。地域ごとに音・匂い・色・所作の組み合わせが練り上げられ、霊の嗜好に合わせて折り合いをつける手続きが生活実践として受け継がれてきた。東アフリカから中東へと広がりつつ、女性の相互扶助都市の継承活動など、多様な場で生き延びる術**として位置づいている。(Sjaak van der Geest, The American University in Cairo Press)

もし必要なら、特定地域(例:スーダンのタンブーラ系ザールエチオピアの家庭儀礼連動型イラン南部のバーバー・ザール体系)ごとに、名称・楽器・供物・規範まで掘り下げた比較表も作成できます。